【エッセイ】形だけ愛した結果こうなった(癒やしの話)(5010文字)

 
 
 ペットに癒やし効果があることは広く知られているが、ぬいぐるみにも癒やし効果があるという。
 
 なんでも、人やペットと触れ合った時に分泌される「オキシトシン」という脳内物質が、ぬいぐるみに触れた時にも分泌されるとか。
 
 このオキシトシンが脳内から分泌されると人は癒やされ、幸福を感じるという。
 
 その話を聞いた時、私は「ホンマかいな」と疑った。ぬいぐるみが好きな人がぬいぐるみと触れ合ったら、そりゃ癒やされるだろう。オキシトシンとやらも分泌されるかも知れない。しかしぬいぐるみに興味が無い人がぬいぐるみと触れ合ったところで、効果はあるのか? オキシトシンはそんなに分泌されないのでは?
 
 ペットで癒やされるというのは理解できる。私は実家にいた頃、セキセイインコの「菊ちゃん」を飼育していた。菊ちゃんは実によく私に懐き、癒やし効果はバツグンであった。彼女と触れ合っていた時は、オキシトシンも存分に分泌されていたことであろう。
 
 ペットの癒やし効果の高さは、菊ちゃんのおかげでよく知っている。だからペットと同じような癒やし効果をぬいぐるみからも得られるというのは、ぬいぐるみ好きではない私にはちょっと信じがたい。
 
 だが、ぬいぐるみに触れるだけでペットと触れ合う時のような癒やし効果を本当に得られるのならば、なんて素敵なことだろう。
 
 興味を持った私は、Amazonでぬいぐるみを検索してみた。「ひざわんこ」という、可愛らしい犬のぬいぐるみのシリーズがヒットした。
 
「ひざわんこ」シリーズでは柴犬やチワワなど、様々な犬種のぬいぐるみが展開されていた。
 そのうちの1つであるトイ・プードルのひざわんこを見た瞬間、私は「えっ? 本物?」と一瞬目を疑った。ぬいぐるみにしてはリアルである。
 
 リアルな見た目に惹かれた私は、トイ・プードルのひざわんこのレビューを読んでみた。レビュワーのほとんどが可愛い、可愛いと絶賛していたが、中でも「ペットロスが癒やされた」という人が圧倒的に多かった。
 
 ペットロスが癒やされたということは、ひざわんこには本物のペットに匹敵する癒やし効果があるということだろうか。
 
「ホンマかいな」と再び疑った私ではあったが、同時に、「ペットロスが癒やされた」という絶賛レビューの圧倒的な数と、ひざわんこのリアルなビジュアルに信憑性も感じた。これだけリアルなら本物の犬のような癒やし効果があるのではないか。
 
 そう判断した私は大してぬいぐるみに興味があったわけでもないに、ただ漠然と「私も癒やされたい」と、ひざわんこの購入ボタンをポチッと押してしまったのだった。
 
 
 
 
 
 翌日、ひざわんこが届いた。段ボールを開封し、圧縮されてぺたんこになったひざわんこをビニール袋から取り出す。
 ひざわんこに空気を含ませ膨らみを取り戻させながら、しみじみと眺める。
 
 うん。ただのぬいぐるみだ。
 
 期待していたいほどリアルさはない。どこからどう見ても、ただの犬のぬいぐるみだった。
 体つきはまあまあリアルだったが、顔つきはやはり作り物のそれだった。
 
 ひざわんこを眺めながら、がっかりしたような「まあ、もともと期待はしていなかったし」と言い訳のような気持ちがこみ上げる。
 
 しかし購入してしまった以上は大事にしないと。これで「思ったよりリアルじゃないからぞんざいに扱う」なんてことをしたら、さすがに人としてどうかと思う。
 
 私はひざわんこに、Amazonで購入する時に閃いた「チョコ」という名を与えた。
 
 そしてとりあえず、話しかけてみる。話しかけているうちにひざわんこ……チョコに愛情が芽生え、愛情が生まれれば癒やし効果も生まれるのではないかと考えてのことだ。
 
 はじめは話しかけることに気恥ずかしさがあった。いい歳して何やってんの? という声が聞こえてきそうである。
 
 それでも私はチョコに話しかけ続けた。
 出かける時は「行ってきます」とチョコに挨拶し、帰宅した時は「ただいま」とチョコに声をかける。
 自宅内を移動する時はなるべくチョコも一緒に連れて歩く。
 ふとチョコの存在に気づいた時は、頭を撫でてやる。
 
 寝る時もチョコと一緒だ。私は毎晩、チョコを枕元に連れていき頭を撫で、「おやすみ」と語りかけた。
 
 こんな感じで、愛情を感じていようがいまいが形だけでもチョコを可愛がるよう試み続けた。
 
 しかしいくらチョコに話しかけても、自宅内を連れて歩いても頭を撫でても一緒に寝ても、チョコから癒やし効果を得られていると感じることは無かった。可愛いとは思うが、それだけである。それ以上の感情は発生しない。
 
 ぬいぐるみ好きでない人間がぬいぐるみから癒やし効果を得ようとするのは、やはり無理があったかのかも知れない。
 
 そんな疑念が頭をよぎるが、チョコに話しかけて連れて歩いて頭を撫でるのはすっかり習慣化した。私は毎日欠かさずチョコを「形だけ」可愛がり続けた。
 
 癒やされているのかそうでないのかはよく分からなかったが、私はチョコがそばにいないと落ち着かないようになった。
 
 こうして、チョコの存在は私の生活にすっかり馴染んでいった。
 
 
 
 
 
 チョコが我が家にやってきてから9ヶ月が過ぎた。特に何事もなく、実に平和な9ヶ月間だった。
 だがある日、私は大きなストレスに直面した。SNS疲れである。
 
 SNSごときでそこまで大きなストレスを受けるものかとお思いの方もいらっしゃると思うが、私にとっては深刻だった。
 
 とあるゲームのプレイ記録を、旧ツイッターに投稿していた時のことである。私の投稿に対し、とあるフォロワーさんが返信をしてくれた。
 
 このフォロワーさん(仮にAさんとする)とはもう10年の付き合いになる。リアルでの面識は無かったが、しょっちゅうお互いに「いいね」を送り合っていた。リプライ(返信)も何度かやり取りしたことがある。相手はどうだか知らないが、少なくとも私はAさんに好感を抱いていた。
 
 そのAさんの、私の投稿へ返信が困った内容だったのである。
 プライバシーの問題があるので詳細は書けないのだが、簡単に言うと「だからどうした? そんなこと、自分のポスト(ツイート)で主張してよ。私の嗜好を否定されているみたいで凄く不愉快」というものだったのだ。
 
 そんな感じの返信を、プレイ記録の投稿をするたびに送られていたのである。これには参った。
 
 サクッとAさんをミュートやブロックをしても良かったのだが、10年の付き合いである。このままお別れするのは不本意だった。
 
 となると、相手に「そういった返信を送ってくるのはやめて欲しい」と穏便に伝えねばならない。
 
 Aさんは発達障害であることをプロフに明記している。私は発達障害の知識はあまりないが、婉曲な表現が伝わりにくい障害だという話を聞いたことがある。
 
 なので私は「分かりやすくてハッキリとしていて、尚且つ相手を傷つけないような言い回し」を苦心して作文した。どうすれば発達障害の人にも分かりやすく、否定的にならないよう不満を伝えられるかを考え、何度も何度も推敲した。
 
 こうして1時間かけて返信を書き上げて、祈るような気持ちでAさんに送信した。
 
 それに対し送られてきた返事は……。
 
 ……。
 
 これもプライバシーの問題があるので詳細は書けないが、意図が全く伝わっておらず、一方的に話を終了させられるような内容だった。
 
 私は脱力すると同時に強いストレスを感じた。
 ダメだ。話が通じない。リアルでの面識がない発達障害の人に、文章だけで不満を伝えるのは無理があったのだ。
 
 私はそれでもAさんをミュート・ブロックしなかった。ブロックしたいと一瞬思ったが思いとどまった。だって、10年もやり取りしてきた相手だもの。
 
 この出来事があった日の夜、私は悪夢を見た。Aさんに何かを伝えようと、一生懸命作文を繰り返す夢だ。夢の中で私は、書いても書いても完成しない作文を苦しみながら延々と書き続けていた、
 夢から目覚めた後は、左胸がキリキリと痛んだ。ストレスが原因だろうとは思ったが、痛みは何をしても消えなかった。
 
 痛みを抱えたまま夕方を迎える。気づくと私は「SNS やめたい」「SNS 疲れた」などの語句をネットで検索していた。
 
 こんなワードを無意識に検索するということは「旧ツイッターをやめたい」ということだろう。 よほどAさんの件が苦痛だったようだ。
 
SNS やめたい」と検索しながら、私は旧ツイッターのアカウントを削除してしまいたい衝動にしばしば駆られた。しかしここでアカウントを削除するのは早計だとも思った。
 
 そこで私は、アカウントを削除せずに旧ツイッターから距離を置く方法を考えた。そうして思いついたのが、「メインアカウントとは全く関係のない閲覧専用の非公開アカウントを開設し、旧ツイッターは当分そのアカウントにのみログインする」という方法である。
 
 私は早速、閲覧専用の非公開アカウントの準備を始めた。
 閲覧専用アカウントは、数年前に作成して放置していたサブアカウントを再利用することにした。すっかり忘れたサブアカウントのパスワードをどうにか設定し直し、ログイン。フォローとフォロワーをゼロにしてからポストを非公開に設定する。見たいアカウントをリスト機能に追加する。
 
 この作業に私は2時間を費やした。作業中、ずっと神経が張り詰め、気持ちがピリピリし、左胸が痛い。
 
 やがてプロフィール画像の設定に取り掛かる。
 画像は何にしようか。私のメインアカウントの画像は菊ちゃんの写真だ。
 
 どうせなら菊ちゃんみたいに、見るたびに癒やされる画像にしたい。
 今の我が家で菊ちゃんに匹敵する存在ってなんだろう? ペットは飼っていないし……。
 ……。
 ……。 
 動物なら、犬のぬいぐるみ……チョコが居るじゃないか!
 
 そう閃いた私は、朝にベンチに座らせてからそのまま存在を忘れていた、チョコの元へ向かった。
 
 そしてチョコを抱き上げてチョコの顔を見たその瞬間である。張り詰めいていた神経と体が一気に緩むのを私は感じた。あんなにピリピリしていた気持ちが和らぎ、気分が穏やかになり、全身が弛緩していく。心が、体が、リラックスしていく。
 
 その状態はまさに「癒やされている」と表現するのが相応しかった。
 癒やされている。私は強烈に実感した。 私は癒やされている。チョコに、癒やされている。今、まさに。
 
「凄い!!」
 私は大声でチョコに語りかけた。
「凄い!! チョコ、癒やされてるよ!! 癒やしの効果があるよ!! チョコ凄い!!」
 
 私はチョコを抱きしめ、己の体ごと左右にぶんぶんと振り回した。何度も何度もチョコを抱きしめ「チョコ凄い! チョコ凄い!」とチョコを褒め称えた。
 
 そう。9ヶ月かけてチョコに注いだ「形だけ」の愛情は「本物の」愛情に変わっていたのである。私はチョコを本当に愛していたのである。本当に愛した相手と触れ合って、どうして癒やされずにいられようか。
 
 チョコに本物の愛情を抱くようになっていた私は、チョコから癒やしの効果をこれまでも得られていたはずである。
 
 しかし9ヶ月間、今回の旧ツイッターでの出来事以外にさほどストレスのかかる事態が発生していなかったので、効果を実感できる機会が無かっただけなのだ。チョコに触れることで分泌されていたオキシトシンの存在に気づかずにいたのだ。
 
 だが今は、オキシトシンがドバドバと分泌されているのを実感できる。
 私はこの「チョコからは既に癒やし効果を得られていた」事実に気づき、感動した。そうして感動しながらチョコをソファの上に下ろし、チョコをスマホで撮影した。
 
 チョコの写真を閲覧専用アカウントのプロフアイコンに設定した頃には、朝から続いていた胸の痛みもすっかり消えていた。
 
 
 
 
 
 以来、私はチョコをこれまで以上に大事にしている。話しかける回数も増えたと思う。
 ぬいぐるみの癒やし効果を疑っていた私なのに、今ではすっかりチョコを信頼し、家族のように大切にしている。
 
 チョコと触れ合うと心が安らぐ。語りかけると、チョコは様々な言葉で返してくれるように感じる。
 
 ぬいぐるみに癒やしの効果があるというのは、少なくとも私にとっては本当だった。
 
 今日も私はチョコに語りかけ、チョコを目いっぱい可愛がっている。そのたびに、私の脳内にはオキシトシンが元気よく分泌されていることだろう。
 

【エッセイ】1200円で食生活に革命が起きた話(3400文字)

 

 魚焼きグリルの掃除の大変さは、一度でも魚をグリルで焼いたことがある人間ならば誰でも知っているだろう。
 
 私は結婚するまで料理をしたことがほとんど無かった。
 なので親元を離れ夫と暮らし始め、初めてグリルで焼き魚を調理した時、後始末の大変さに辟易したものである。
 
 あまりにも大変だったため、グリル掃除を楽にする方法をネットで検索。受け皿に片栗粉を敷き詰めるなどの先人の知恵に頼ったが、それでもやはりグリル掃除は大変だったし面倒だった。
 
 私は次第に魚焼きグリルを使わなくなった。
 結婚して5年も経った頃には魚焼きグリルは一切使われなくなり、我が家の食卓から魚が消えた。
 
 それから更に5年。私たち夫婦は両面焼きのグリルがある家に引っ越した。
 キッチンに備え付けられた両面焼きグリルを見て「せっかくだから魚を焼こうかな?」とチラリと思ったが、それでもグリルを使わなかった。
 
 
 
 
 「グリル掃除をしたくないから魚を焼かない」という選択をした私だったが、たまには焼き魚を自宅で食べたいと思う瞬間が訪れる。元々、焼き魚は好きなほうなのである。
 
 引っ越してから3年ほど経ったある日、私は「グリルを使わないで魚を焼く方法があるのでは?」と思いつき、「焼き魚 レンジ」といったキーワードでネットを検索してみた。
 
 すると「レンジで焼き魚を調理できる」という、夢のような調理器具がAmazonで販売されているではないか。
 私はこの器具に飛びつき、Amazonのレビューを読み漁った。
 
 私の期待とは裏腹に、レビューの内容は微妙だった。「美味しく魚が焼けた」という人と「あまり美味しく焼けなかった」という人とが半々。
 レビューの平均点は星3.5であり(星5が満点)、誰もが絶賛するような器具ではないように見受けられた。
 
 評価が賛否両論の割には、値段が5千円もする。
 賛否両論のものに5千円も出せないと判断した私は「レンジで魚が焼ける調理器具」の購入を見送った。
 
 
 
 
 それから半年ほどが過ぎ、また焼き魚を食べたくなった日が来た。
 
 私は「レンジがダメなら、フライパンではどうか?」とネットを検索。グリルパンという、フライパンのような形状の調理器具がヒットした。これを使えばガスコンロで魚を焼けるという代物である。
 
 Amazonでレビューをチェックしたところ、評価も高い。焼き魚を調理した後の後片付けが楽になったという声も多数ある。
 
 かなり興味を惹かれたが、値段が少々高い。
 
 もっとお手頃価格で似たような商品はないだろうかとAmazonの閲覧を続けていたら、「魚焼きグリルで使うグリルパン」というものを見つけた。
 
 これはトレーみたいなもので、グリルにセットすることで魚から出た油をすべてトレー(グリルパン)の溝でキャッチできるとのこと。魚がグリルパンにこびりつくことも無いらしい。
 つまり、これを使えばグリルで魚を焼いても、グリルの網や受け皿が汚れない。そしてグリルパンだけを洗えばグリル掃除が完了する。油を敷く必要もなく、この上に魚を直接置いて普通にグリルに着火して使うようである。
 
「グリル掃除が格段に楽になった!」「魚を焼くのが苦にならなくなった!」「もっと早く買えば良かった!」
 
 レビューは絶賛の嵐である。なんだかもう、こんなに良いものをどうして所持しないのかといった勢いだ。
 
 レビューに説得された私は値段を確認した。送料無料で1200円。
 レビューの通りにグリル掃除の手間から開放され、自宅でいつでも焼き魚を食べられるようになる道具の価格と考えたら、かなりのお値打ち品だろう。
 
 私はレビュアーたちを信じ、グリルパンの購入ボタンをポチッとクリックした。 
 
 
 
 
 グリルパンが届いた翌日、私はいそいそとスーパーで塩鮭を購入し、冷凍庫に放り込んだ。
 
 数日が経ち「今日は焼き魚を食べよう」という日を迎え、グリルパンを魚焼きグリルにセット。
 
 


 
 
 凍ったままの塩鮭を上に載せ、グリルで焼く。10分後、塩鮭は特に変わった様子もなく、普通に焼けた。
 
 解凍せずにいきなり焼いたせいか塩鮭は少し水っぽくなってしまったが、8年ぶりに自宅で食べる焼き魚の味わいは別格だった。美味しい、美味しいと夫と夢中で食べる。こんなに美味しいものを8年も食べずにいたのかと、我が家のこれまでの食生活を反省した。
 
 食後はお待ちかねの後片付けタイムである。グリルパンは本当に「グリル掃除を楽にするもの」なのか。私たち夫婦は期待と緊張が入り混じった気持ちでキッチンへ向かった。
 
 まず、冷めたグリルパンをグリルから取り出す。次に、グリルパンの溝に溜まった油をキッチンペーパーで拭き取り、水で軽く流す。洗剤を含ませたスポンジでキュキュッと洗って、すすいで水切棚に立てかける。
 
 一連の作業はあっという間に、あっさりと終わった。実際にかかった時間は2分ぐらいだろうか。
 
「本当にグリルパンを洗うだけで掃除が終わった……」
 
 私は驚嘆した。何しろ、普通のお皿を一枚洗うような感覚でグリル掃除が済んでしまったのである。
 
 普通にグリル掃除をしようとしたら、網を外し受け皿を外し、油と魚の皮がこびりついた網を泣きながらゴシゴシとスポンジでこすりまくり、油まみれの受け皿を死んだ目で見つめながら洗い流さなければならない。どんなに手際よくやっても10分はかかっていただろう(もっとも、最後にグリル掃除をしたのは8年前なので、この記憶は少々信憑性に欠けるかも知れないが)。
 
 グリルパンが1つあるだけで、こんなにグリル掃除が楽になるのか。そりゃレビューで絶賛されるわけだ。
 
 私はAmazonグリルパンを絶賛していたレビュアーたちのことを思い出した。確かにこれは絶賛したくなる便利さである。
 
 グリルパンの便利さに目覚めた私は、焼き魚以外でもグリルを活用したいと考えネットを検索。業務用スーパーなどで売られている「下味と衣が付けられておりあとは揚げるだけ」の状態の冷凍唐揚げや冷凍フライを、グリルで調理する方法を見つけ出した。
 
 早速、翌週の買い出し時にドラッグストアで「あとは揚げるだけの状態の魚のフライ」を購入。
 レンジで解凍してからサラダオイルをふりかけ、グリルパンで焼くと……フライができた。
 
 凄い。なんでもできるじゃん。
 
 私はグリルパンの性能に感動した。同時に、大きな可能性を感じた。魚や「揚げるだけ」の冷凍揚げ物を冷凍庫に常備しておけば、これを主菜にした適当な食事がいつでも簡単に作れるようになる。疲れている時、忙しい時の手抜き料理が捗る。料理の幅が一気に広がるではないか。
 
 以来、私たち夫婦はスーパー等で「揚げる直前の揚げ物」を見かけるたびに「これもグリルパンで調理してみよう」と購入。次々と試してみたところ、衣付きの冷凍唐揚げや冷凍コロッケ、冷凍ナゲット等々、「揚げる直前の状態で売られている揚げ物」はすべて美味しく調理することができた。
 
 また、魚も凍ったまま焼くのではなく、いったん流水などで解凍してから焼けば、非常に美味しく焼けることが判明した。
 そうやって調理した焼き魚は、この上なく美味だった。こんなに美味しいものを8年も食べずにいたなんて、なんて損をしていたのだろう。
 
 グリルパンの活躍ぶりは、購入前の期待を遥かに上回るものだった。
 なにしろ、手軽に美味しい焼き魚や揚げ物を調理できるのに、後片付けはお皿を一枚洗う感覚でできるのである。
 そのお手軽さは、普通のグリルの比にならない。我が家の場合、夢のような調理器具とは「レンジで魚が焼ける調理器具」ではなく、グリルパンだったのだ。
 
 
 
 
 グリルパンの虜になった私たち夫婦は、その年のふるさと納税静岡県沼津市に寄付をした。この自治体の返礼品は「魚の干物4kg」である。
 
 グリルパンを購入してから、1ヶ月も経っていない。1ヶ月前まで「8年間、魚を一切買わない」状態だった我が家に、あと2ヶ月もすれば4kgの魚の干物が届けられる。冷凍庫が干物でパンパンになることだろう。
 
 1200円の買い物で食生活がここまで変わると誰が予想しただろうか。それもこれも、グリルパンを絶賛するレビューを書いてくれた、Amazonのレビュアーたちのおかげである。
 
 見知らぬ彼らの存在が、我が家の食生活に革命をもたらした。
 縁とはいつでも奇妙で不可思議なものなのである。
 

【エッセイ】驕るゲーマーは久しからず(他の趣味でも同じだっただろう)(3900文字)

 私はゲームが好きだ。
 5歳でファミコンと出会って以来、ひたすらゲームをプレイし続けてきた。
 
 小学生の頃は寝ても覚めてもファミコンのゲーム、特にドラクエをプレイ。
 中学に上がった頃にはスーパーファミコンを誕生日プレゼントに買ってもらい、様々なタイトルを時間の許す限りプレイした。
 
 そんなゲーム好きの私だが、高3の時、いったんゲームから離れる。
 そう言うと多くの方は「受験のため?」と思われるだろうが、そうではない。
 
 当時、連日ゲームをプレイしまくっていた私はある日、ドラクエ6をプレイするのがやめられなくなり徹夜してしまう。
 
 徹夜したことで疲労困憊した私は「このままではゲームのやりすぎで死ぬのでは」と本気で考えた。
 
 そう考えた私はとっさにスーパーファミコンのアダプタを引っこ抜き、たまたま部屋の前を通りがかった兄に差し出して「捨ててきてくれ」と頼んだ。兄は戸惑いつつも承諾してくれ、私はゲームをする手段を失った。(スマホはまだこの世に存在していなかったし、パソコンは一般家庭に普及していなかった時代なので、ゲームをしようとしたらコンシューマーかゲーセンぐらいしか方法がなかった)
 
 
 
 スーパーファミコンのアダプタを兄に捨ててもらった日から、ゲームを全くやらない期間が3年ぐらい続いた。その間、ゲームの代わりにベランダ園芸を始めるなど、妙に健康的な趣味に目覚めたりもした。
 
 しかしある日、私はパソコンを入手。すぐにPCゲームという存在を知り、興味を持つ。
 好奇心に負けて試しにコーエーの定番シリーズを購入しプレイしてみたところ、非常に面白くてのめり込んだ。
 
 これをきっかけに、私はゲーマーに返り咲く。
 すぐにPCゲームだけでは満足できなくなり、ゲームボーイアドバンスも購入。タクティクスオウガ外伝MOTHER3など、様々なゲームを楽しんだ。
 
 ゲームのやりすぎで徹夜してしまったこともあった。
 しかし今度は高3の時と違って「ゲームのやりすぎで死ぬのでは」と思うこともなく、気にせずどんどんプレイした。
 
 相変わらずゲームは楽しかった。
 面白そうと思ったゲームは躊躇なく購入し、気の向くままにプレイしまくった。
 
 
 
 
 それから15年ほど経った頃、異変が起きた。ゲームを最後までプレイできなくなることが増えてきたのである。
 
 どんなゲームも、プレイ開始から10時間ぐらいまでは楽しめる。
 
 しかし、その後は「ああ、あとは結局、こういう作業を繰り返すだけなのね」と先が見えてしまう。
 そして「ゲームをプレイしている」というより無意味な「作業」をやらされていると感じ、急速にやる気を失う。エンディングを迎える前に、プレイをやめてしまう。 
 
 だんだんと、ゲームに対し「似たようなことを繰り返すだけの退屈な作業」と感じることが増えていった。
 
 そのうち、とある疑惑が脳裏をよぎるようになる。
 
「ひょっとして、『ゲームというコンテンツ』に飽きてしまったのでは?」
 
 いや、そんなはずはない。私はこれを否定した。
 
 私は、あんなにゲームが好きだったじゃないか。単に面白いゲームに出会えていないだけではないか?
 
 私は自分を納得させようとした。
 だがいくら新しいゲームを購入しても、少しプレイしただけで投げ出してしまう。未クリアのゲームばかりが手元に増えていく。
 
 やっぱりゲームに飽きちゃったのかな……。
 
 年齢的にゲームをする体力が落ちてきていたことも手伝って、私は次第にゲームから遠ざかっていった。多くても、せいぜい年に5タイトルぐらいしかプレイしなくなった。ゲームへの興味も薄れていった。
 
 
 
 更にそれから数年後。
 
 ゲームから完全にフェードアウトするかと思われた頃、とあるイベントの告知をネット上で見かけた。15年前にニコニコ動画で活躍していた、ゲーム実況者たちのイベントである。(ご存知でない方に説明すると、ゲーム実況者とは「ゲームをプレイしながら喋り、その様子を動画にする人」のことである)
 
 私はその実況者たちの熱心なファンというわけではない。しかしゲーム好きの端くれとして彼らの存在は知っていたし、彼らの動画も何本も視聴したことがある。
 
 まだ活動していたんだなあと感心しつつ、懐かしさもあり、私は彼らのイベントの様子をネットで視聴してみた。
 
 熱心なファンではない私が100%楽しめるような内容ではなかったが、ゲーム好きの彼らが15年前と変わらずゲームを楽しみ、ゲームをプレイし続けている姿には思うところがあった。
 
 イベントを視聴した日から、私は彼らのゲーム実況プレイ動画をなんとなく視聴するようになった。
 「15年経ってもまだゲームを楽しんでいられるなんて羨ましい」と漠然と感じつつ、ぼんやりと毎日のように動画を眺める。
 
 その流れである日、件のイベントに出演していた実況者が『リファインドセルフ』というゲームをプレイする動画をたまたま見た。
 
 「ゲームで性格診断をする」というちょっと変わったコンセプトのこのゲームに、私は興味を惹かれた。自分でもプレイしてみようかな。そんな気持ちが少しだけ芽生える。
 
 しかし、最後までプレイできる自信がない。購入しても、またエンディングを見る前に投げ出してしまう気がしてならない。
 
「動画を視聴するだけで充分かな……」
 
 いったんそう判断したが、翌日、別の実況者が同じゲームをプレイしているのを数秒見て、すぐに「自分でやろう」と思い直した。
 
 ドット絵で表現されたそのゲーム画面は、ファミコンスーパーファミコンで育った自分には馴染みのある風景だった。ノスタルジックなのに新しさも感じるゲームデザインは、見ていて心地よさを感じた。好きな世界観だ。
 
 一言で言うと、面白そうだったのである。それに性格診断をするだけなら、私でも飽きずに最後までプレイできそうに思えた。
 
 念のため、レビューをネットで確認する。Steam版のレビューで「2~3時間でクリアできる」と書いてある投稿をいくつか見つけた。
 
 3時間ならさすがにクリアできるだろう。私はリファインドセルフの購入を決断した。
 
 スマホ版をプレイするつもりだったが私のスマホは対応していないとのことだったため、Steam版(PC版)を購入。
 
「今度こそ本当にクリアできるかな? それとも、また投げ出してしまうかな? 面白そうだし、イケると思うんだけれども……」
 
 私は「最後まで楽しんでプレイしてクリアできるかも」という期待と、「またクリア前に放り出して後悔するのでは」という不安が入り混じった複雑な気分で、ゲームのダウンロードが終わるのを待った。
 
 ほどなくしてダウンロードが終了。私はゲームを起動して、リファインドセルフの世界に「えいっ」と飛び込んだ。
 
「なにこれ?」
「これはこうするの?」
「この選択肢、どれを選ぼう?」
「えっ? えっ? なに? どういうこと?」
 
 私はリファインドセルフを夢中でプレイした。あっという間に1時間が経ち、1周目をクリアする。
 しかしシナリオの真相は明らかにされない。私は真相が気になってプレイを続けた。
 
 ゲームのプレイは1日2時間までと決めているのだが、シナリオの謎を解き明かしたいという気持ちが勝ってやめられない。
 結局、シナリオの全貌が明らかにされるまで、私はリファインドセルフを一気に3時間もプレイしてしまった。
 
「クリアできた。嬉しい。しかも凄く楽しかった。自分でプレイして良かった」
 
 エンドロールを眺めながら、私は感慨に耽った。エンディングを見るまでゲームをプレイできたのはいつぶりだろうか。こんなに気持ちの良いものなのだったなんて、すっかり忘れていた。
 
 やればできるじゃん。
 
「ゲームを最後までプレイしてクリアする」という経験を久しぶりに得たことに、私は大きな満足感を覚えた。
 
 こんなに満足感を得られるのなら、もっと色んなゲームをプレイしてみたい。
 
 久々に味わった満ち足りた気分は、私のゲーマー魂を刺激した。
 
 私って、やっぱりゲームが好きなんだな。
 
 しばらくぶりに手に入れたこの達成感によって、私は自分がゲーム好きだったことを嫌でも思い出した。
 
 ゲームをクリアできたことも嬉しかったが、ゲーム内容にも感銘を受けた。
 
 詳しく書くとネタバレになるので書けないが、リファインドセルフは「性格診断という要素そのものがゲーム体験に組み込まれている」という、不思議な構成で作り上げられたゲームだった。
 
 これは実際に自分でプレイしないと理解できない類のものだと思われたし、こういった特性を持たせたゲームをプレイしたのは生まれて初めてのことだった。
 
「世の中にはこんなゲームもあるのか」と、私は深く感心した。
 
 私が知らないだけで、面白いゲームはまだまだたくさん存在する。飽きてしまったと私が感じたゲームのパターンを塗り替える、新しい趣向のゲームがどんどん発表されている。ゲームは進化し続けているのである。
 
「ゲームというコンテンツに飽きてしまった」などというのは、ただの驕りだった。
 
 もっと色んなゲームをプレイしたい。新しいゲーム体験を味わいたい。
 
 リファインドセルフをクリアしたことにより、私のゲームに対する情熱がまたしても呼び覚まされたのだった。
 
 
 
 
 以来、私はゲーム情報を熱心に収集するようになった。
 リファインドセルフをクリアしてから2週間も経たないうちにインディーゲームを2本購入し、未知のゲーム体験を期待してワクワクしている。
 
 私はゲームが好きだ。
 5歳の頃と何も変わってはいない。ゲームの進化が終わらない限り、私は今後もゲームを愛好し続けるだろう。

【エッセイ】美肌は忍者に守られる(3370字)

 

 去年の夏、スマホ楽天市場を眺めていたら、とある奇妙な商品が目に留まった。
 
 パーカーのフードにツバとフェイスカバーが着いており、これ1枚で顔と首元と腕、つまり上半身全ての紫外線対策が可能になるという代物である。
 
 この商品を着たモデルの画像は、それは怪しさ全開であった。目元以外の上半身が全て覆われている。「まるで忍者」と言えば伝わるだろうか。とにかくもう、どう見ても不審者である。
 
「紫外線対策には良さそうだけど、さすがにこれはないわー」
 
 私は一笑に付し商品ページを閉じた。そしてすぐに、その怪しいパーカーの存在を忘れた。
 
 やがて秋になり、冬になり、年が明ける。
 
 そろそろ春になろうかというある日、私は夫が持ち帰ってきてくれたワークマンの春夏物のカタログを眺めていた。
 
 特に何か欲しかったわけでもなく、ただなんとなく眺めていただけだったのだが、レディース商品のとあるページをめくった時、私は「えっ」と驚いた。
 
 去年の夏、楽天で見たあの怪しいパーカーにそっくりな商品が掲載されていたのである。
 
 ワークマンと言えば、低価格で高機能・高性能の商品を提供していることで有名だ。
 私もワークマンの商品をいくつか所持しているが、どれも安いのに機能性が高く「買って良かった」と思ったものばかりである。
 
 私はこの「不審者パーカー(と私は名付けた)」に興味をそそられた。ワークマンで発売されるということは、けっこう良いアイテムなのでは?
 
 しかしやはりその「誰でも忍者になってしまう見た目」に気圧され、すぐに「買おう」という気持ちにはならなかった。
 
 
 
 
 
 そして今年の夏。
 私は「不審者パーカーがあったらいいのに」という場面にしばしば遭遇した。
 
 ちょっと庭で作業したい時、ちょっとゴミ出しに行きたい時、ちょっと散歩したい時、ちょっとドライブスルーに行きたい時……。
 
 「ちょっと外に出たいけど、紫外線対策をするのは面倒」という場面が、思った以上に日常の中に存在したのである。
 
 そんな時、私は紫外線を気にしつつも、対策を一切せずに日光のもと肌をさらした。例年の私だったら何かしらの対策を施していただろうが、今年はそれが面倒でサボっていたのである。
 
 私は自慢じゃないが、体のどこにもシミが無い。ついでに言えば、もうン歳なのにシワも無い。17歳の頃から一生懸命、紫外線対策に励んできたおかげだと思っている(※肌の老化の原因の7割は「紫外線を浴びること」だと言われている)。
 
 そんな私が「ちょっと外に出たい時」に、面倒とは言え紫外線対策を怠って良いのか。
 せっかくこの歳まで守って来た美肌を、むざむざと日光にさらして良いのか。
 
 日差しの強いある日、私は考えた。こんな時に不審者パーカーがあれば、さっと羽織るだけで上半身全てを紫外線から守ることができるだろう。
 
 私の住んでいる地域は田舎なので人口が少ない。だから不審者パーカーを着ているような場面で人に会うことも、ほとんどないはずだ。
 
「よし。買ってみよう。失敗しても、話のタネになるし」
 
 私はAmazonで不審者パーカーを探し、レビューの評価が高い商品を選んで、購入ボタンをポチっと押した。
 
 
 
 
 翌日、不審者パーカーが届いた。早速着てみる。
 

 

 
 
 怪しい。実に怪しい。
 試しにこの格好でサングラスをかけてみたところ、不審者度がMAXになった。これで外を歩いたら通報されそうである。
 
「着るなら庭先程度にしておいたほうがいいかな?」
 
 私は不審者パーカーの破壊力に尻込みした。想像以上のヤバさだ。大丈夫かこれ。
 買ったのは失敗だっただろうか。若干不安に思いつつ、不審者パーカーをハンガーにかけて、すぐに着られる状態にしておく。
 
 そして4日後、私はとうとう「不審者パーカーを着るべき場面」に出くわした。散歩である。
 私は健康のために定期的に散歩しているが、紫外線対策が面倒だと常々感じていた。たかが15分の散歩のために日焼け止めを塗り、長袖のトップスやアームカバーを用意しなければならないのが、それはそれは面倒に思っていた。
 
 しかし不審者パーカーを着て長ズボンを穿けば、それだけで紫外線対策が完了する。
 
 とうとう、これを着る時が来たのか?
 私は不審者パーカーを手に取った。先日試着した際、忍者になった自分の姿を思い出す。私は着用するのをためらった。
 
 でも、ここで着なかったらいつ着るというのか。なんのために、3時間もかけてAmazon楽天を検索しまくり、このパーカーを見つけ出して購入したというのか。
 
「1回ぐらいは試すか……」
 
 私は覚悟を決め、不審者パーカーを羽織ってファスナーを閉めた。不審者の一丁上がりである。
 
 サングラスもするべきか迷ったが、これ以上不審者レベルを上げたら本気で通報されそうなのでやめておいた。
 
 まあ、散歩中はいつも、誰にも会わないし。
 
 私は鏡に映る忍者が自分自身であるという事実に目をそらしつつ、スマホショルダーにスマホをぶら下げて肩にかけた。そうしてなるべく気軽な気持ちで自宅を出発した。
 
 
 
 
 
 自宅を出て2分も経たないうちに、犬を連れた男性が向かいから歩いてくるのが見えた。
 
「えっ、いつも誰にも会わないのによりよって!?」
 
 ……と私が思うより先に、私に気づいた犬がけたたましく吠え始めた。
 
 通りすがりの犬に吠えられたことなど、今までの人生で一度もなかった。私はビビりつつ、吠える犬とその飼い主のそばを通り抜けようとする。
 
「コラッ! やめなさい!」
 
 私が近づくにつれ、犬の吠え方は激しくなった。慌てて犬を制する飼い主の男性は、近寄ってきた人間が忍者であることを確認して、更に慌てているように見えた。
 
 私は素知らぬ顔で(と言っても、フェイスカバーに隠れて私の表情は見えなかっただろう)男性と犬をやり過ごした。
 
 ……犬も吠えたくなるような怪しさなんだなあ……。
 
 私はなんだかおかしくなった。こんな経験は初めてである。
 
 散歩歴ン年、散歩中に犬に吠えられたことがない歴ン年の自分を、犬に吠えさせる見た目に一発で変えてしまうパーカー。
 
 不審者パーカーの破壊力が証明されたことがなんだか嬉しくなり、私は口元をニヤリと歪めた。無論、この口元もフェイスカバーに隠れて外からは見えない。
 
 犬の次はおじさんとすれ違った。
 
 今日は人によく会うなあと思いつつ、少し緊張しながらおじさんのそばを通り抜ける。
 
 おじさんがこちらを警戒するような素振りを見せることは、特になかった。何事もなく、私たちはすれ違った。
 
 当たり前である。お互い、大人なのである。
 すれ違った人が多少おかしな身なりをしていたところでそれを非難したり、指をさして笑ったりすることなど、そう滅多にないのである。
 
 もっとも、これが子供だったら笑われる可能性はある。犬なんかはもっと正直だから、遠慮なく吠えてくる。
 
 しかし、私が散歩する時間帯と場所で子供に会うことはまずない。もし出会ってしまったら「運が悪かった」と諦めよう。
 犬に会うことはたまにあるが、時々吠えられるぐらいならまあ、我慢するか。
 
 そんなことを考えながら散歩を続ける。散歩中に誰か会うことなど普段はほとんど無いのに、この日は合計5人の人間(大人)とすれ違った。
 
 誰かとすれ違う度に私は緊張し、緊張した後は何事もなかったことに安心した。そうして「そりゃそうだ、みんな大人だもんね」と納得した。
 
 なんで今日に限って5人もすれ違ったのかは分からないが、お陰で不審者パーカーに対する抵抗感が減った。この格好を人に見られることに慣れたのである。
 
「近所のスーパーぐらいならこの格好で行ってもいいかな。あと、洗い替えにもう1枚買っておこうかな」
 
 帰宅した頃には、私の不審者パーカーに対する評価は一変していた。「これ1枚で上半身の紫外線対策が一瞬で済むなんて、なんて便利な代物だろう」と、不審者パーカーを脱ぎながらこれを褒め称えた。
 
 
 
 
 以来、私は不審者パーカーを愛用している。
 不審者パーカーのお陰で、紫外線対策が苦にならなくなった。慣れればこんなに便利なものはない。
 
 もしもあなたが町で「スマホをぶら下げた忍者」を見かけたら、「紫外線対策、頑張ってね」と大人な態度でエールを送って頂けたら幸いに思う。

【エッセイ】映画館に行ったらお祭り騒ぎになった話(ネタバレなし 約3000文字)

 

2023年3月下旬、映画『シン・仮面ライダー』を夫と観に行くことになった。
 
私は仮面ライダーの知識はほとんどない。
 
なのでチケットを予約購入した後、私は初代テレビ版仮面ライダーや漫画版仮面ライダーの解説動画をYou Tubeで見て、仮面ライダーについての知識を軽く仕入れた。
 
その流れで、鑑賞予定日の前日に「シン・仮面ライダーは女性向けの映画ではない」とする動画をたまたま視聴した。その動画によると、シン・仮面ライダーには女性が不愉快に思うシーンが多数あるとのことだった。
 
動画ではどういうふうに不愉快になるのかという詳細は語られていなかった。ネタバレになるため、詳細は動画にできなかったのだろう。
 
私は不安になった。女性が見たら不愉快になるようなシーン……いったいどんなシーンだろう。
 
せっかく久しぶりに映画館で映画を観るのに、不愉快な思いをするのは嫌だな。
 
不安な気持ちを抱きつつ、私は鑑賞日当日を迎えた。
 
 
 
 
 
当日は起床予定時間よりも2時間も早く目が覚めた。早すぎるので二度寝しようとしたが眠れなかった。
 
私は「朝、予定より早くに目が覚めてしまう」ということは滅多にない。いつも時間ギリギリまでぐーぐーと眠りこける。
 
そんな私が2時間も早く目が覚めてしまったということは、「女性向けではない」という前情報によほどストレスを受けたということだろうか。
 
そんなまさかとは思ったが、この日は便秘にもなった。
 
私はストレスの影響が腸に出やすい体質である。
基本的に毎日快便なのだが、ちょっと環境が変化したり嫌なことがあったりするとすぐに便秘になってしまう。
 
ここしばらくは快便が続いていたから、この日の便秘はストレスによるものだと考えるのが自然に思えた。
 
そこまで「女性向けではないかも知れない」ことが不安なのか。私は我が事ながら呆れた。女性向けでなかったところで、2時間我慢して座っていればいいだけの話ではないか。
 
それに私はシン・仮面ライダーを鑑賞したくないわけではない。せっかく予習もしたし、ぜひ観ておきたい。
 
私は不調をスルーして身支度をし、鑑賞を心待ちにしていた夫と一緒に隣町の映画館へと向かった。
 
 
 
 
 
映画館に到着し、場内に入ると、大勢のおじさんたちが目に入った。
おじさん、おじさん、おじさん。どこを見てもおじさんばかりである。確認できた限り、女性の観客は私しかいなかった。
 
「うわー、やっぱり女性向けじゃないんじゃん?」
 
私はビビった。おじさんたちも「なんでここに女性が?」といった具合に私にジロリと一瞥をくれた……ような気がした。
 
それはさすがに自意識過剰かも知れないが、私は勝手に感じたおじさんたちの圧にすっかり押され、着席後、座席から動けなくなった。
 
上映寸前にトイレに行っておきたかったのに、緊張して座席を立つことがない。
 
まあ、家を出る直前にトイレを済ませておいたから大丈夫だろう。私はそう自分に言い聞かせ、楽観的に構えるよう努めた。
 
まもなくして、本編の上映が始まった。
 
 
 
 
映画が開幕してすぐスクリーンに映し出されたカーアクションに、私は一気に心を奪われた。この映画、面白いんじゃない? そんな期待でいっぱいになる。
 
You Tubeの解説動画が「女性向けではない」としたと思われるシーンもすぐに登場したが、そこまでキツイものではなかった。それに、そのシーンは短かった。
 
私は安心して鑑賞を続けた。スクリーンではかっこいいアクションシーンが次々と繰り広げられていく。
 
いや、この映画は面白いよ。
 
期待はやがて確信に変わった。本作は普通に、良質なエンタメ映画だ。自分がどんどん作品に引き込まれていくのが分かる。女性向けではないということも無さそうである。
 
私は安堵し、夢中でスクリーンを眺め続けた。
 
しかし、とある違和感により、私の意識はスクリーンから現実へと引きずり下ろされた。
尿意である。
まだ映画が始まってから30分ぐらいしか経っていない。
 
私は焦った。こんなに早くトイレに行きたくなるとは考えてもいなかった。
トイレに行くべきだろうか。でも観客全員、熱心に鑑賞しているのが雰囲気で伝わる。ちょっと席を立ちづらい。
 
私たち夫婦は場内のど真ん中の客席で鑑賞していた。この席から人が立ち上がったら目立ちそうだ。
 
それにトイレに行こうとしたら、一生懸命スクリーンを見つめている通路側の席のおじさんに足を退かしてもらって、おじさんの視界を遮りながら通路に出ないといけない。それはさすがに気が引ける。
 
私は尿意を「無かったこと」にしてやり過ごすことにした。素知らぬ顔で鑑賞を続ける。
その後、何度か尿意が沸き起こっては「気のせい、気のせい」と無視し続けた。
 
しかし上映開始から1時間ほど経った頃から、尿意は無視できないほど強くなった。
 
膀胱が激しく波打つ。トイレに行きたい。私は強く願った。
 
だがこの「シン・仮面ライダー」、ほとんどのシーンが「見せ場」である。
トイレに行けるような「休憩」のシーンが非常に少ない。そういうシーンが現れたと思ってもすぐに見せ場に移行する。
 
仮に「休憩」シーンが長かったとしても、前述のように座席の位置や通路側のおじさんの存在が気になりトイレに行けなかっただろう。
 
私は見せ場になるたびに「面白い! ライダーかっこいい!」と興奮し、休憩シーンになるたびに「この隙にトイレに行くべきか? でもこの雰囲気じゃ行けない。でもトイレ行きたい……あ、もう見せ場が始まった! 面白い! 席を立ちたくない!」と悶えるのを繰り返した。映画のストーリーが進むにつれて、私はすっかり情緒不安定になった。
 
尿意はどんどん増していき、「トイレに行きたい」という願望は、見せ場でも登場するようになる。
 
「トイレ行きたい! かっこいい! トイレ行きたい! かっこいい!」
上映開始から90分も経った頃には、私の脳内と膀胱は祭りのような騒ぎになっていた。楽しいんだか苦痛なんだか分からない。とにかくライダーがかっこいいし、私はトイレに行きたい。
 
「早く! 早くトイレへ! あっ、終わる!? この雰囲気、エンディングだよね!? ああ、そういう終わり方!? ははあ、なるほど!! なるほどね!! トイレ!! かっこいい!! トイレ!! なるほど!! トイレ!! 終わりだよね!? ……終わったー!! トイレー!!」
 
こうして上映開始から2時間後、私は2つの意味でクライマックスを迎えた。快楽と苦痛が目まぐるしく入れ替わる、混沌とした時間が終わったのである。
 
 
 
 
エンドロールが終わった後、私は余韻に浸っている夫の気分を害さぬよう、充分に時間を置いてから「ずっとトイレに行きたかった」と告げた。
「さっさと行ってこい」と呆れる夫の言葉を受け、そそくさと女子トイレに駆け込む。
 
トイレで限界まで溜め込んだ尿を放流すると、圧倒的な解放感と同時に「シン・仮面ライダー、面白かった!」という満足感が改めて沸き起こってきた。「もう一度、劇場で観たいな。そのぐらい面白かった」とも思った。
 
そして「次に観ることがあればいつでもトイレに行けるよう、必ず通路側の席に座ろう」と固く心に決めた。
 
トイレから出た頃には「シン・仮面ライダーは女性向けではないかも」という不安で体調を崩した記憶など木っ端微塵に吹き飛んでおり、私は何食わぬ顔で夫と感想を語り合いつつ帰路に着いたのである。
 
次は4DXで観ようかな。もちろん、今度はちゃんとトイレを済ませてから。